2014年11月16日日曜日

悲報と希望 エボラ熱第8信

 「エボラ出血熱のこと、心配しています。」「エボラ熱の終息を祈るばかりですね。」などの言葉を添えて支援金を振り込んでくださる方が続いています。新聞等でも毎日の様に感染状況や先進国からの医療従事者の感染の様子などが報じられています。エボラ熱治療のために西アフリカに赴き、命を落とされた方々の貴いお働きに心から感謝し、ご遺族や関係の皆さまへの慰めが豊かにありますようにと、お祈りいたします。



     シスターが届けたお米を受け取るカイラフン地区の人々

 シスター吉田は、相変わらず超多忙で、その上、インターネットの状況も良くなく、まとまった報告文は届いておりません。シスター吉田やシスター白幡から断続的に入手した情報を繋ぎ合わせてご報告いたします。

  私どもが最も恐れていたことが起きてしまいました。支援先であるOLG学園高等部4年生のカディアッツ カーボさんがエボラ熱に感染して隔離されてしまいました。しかし、幸いなことに完治して生還したそうです。しかし悲しいことに、彼女が家に戻りますと、両親、弟妹などすべての家族がエボラ熱で亡くなっていたそうです。
  エリサ地区長が励ましに訪ねましたが、憔悴しきった彼女の姿があったそうです。カディアッツさんの今後については、現地のシスター方が全力でサポートしてくださると思いますが、必要があれば、こちらに届いている「エボラ対策支援金」で彼女の経済的なサポートもさせていただきたいと願っています。

  ルンサの町全体で、エボラからの生還者が49名(11月10日現在)で、エボラの為に亡くなられた方の為に国が行う埋葬方法などが、死者への尊敬の念を持ったものに改善されたので人々も冷静になり、埋葬された遺体を掘り起こして二次感染を招くようなことは無くなりました。また、感染の心配のある人は、近くに設置されたエボラセンターに自分から訪ねるようになって来ているそうです。ルンサでは、一時は毎日聞かれた感染者を運ぶ救急車のサイレンの音も、あまり聞かれなくなったそうです。
 シスター吉田は「国全体ではまだまだですが、少しですが希望の見えてきたルンサです。」と書いて来られました。
 そして、シスターは今も貧困家庭へのお米配り等に忙殺されています。学校再開の見通しはまだ立っていません。

 11月15日の新聞には「エボラは医療の力だけでは治せない。食料支援に、あなたの力を」という国連WFPの大きな広告が掲載されていました。今、現地でシスター方が行っている活動も、文字通りの草の根の食料支援として、シエラレオネの人々の大きな助けになっているのだと確認させられました。

 前回、10月5日現在の西アフリカ3カ国の感染者、死亡者数を紹介しましたが、WHOは11月12日にもデータを発表しました。2つ合わせると下記の通りです。

                     10/5     11/12    増加数   増加率   
ギニア      感染者  1298人   1878    580人  1.45倍 
           死者     768人    1142人  374    1.49
           死亡率   59.2%      60.8%
リベリア      感染者  3924人   6822人  2898人  1.74
           死者    2210人   2836人   626    1.28
           死亡率    56.3%      41.6%
シエラレオネ 感染者   2789人   5368人  2579人   1.92
           死者       879人   1169人  290    1.33
           死亡率    31.5%      21.8%

 WHOのデータも、発表後に修正されることもあるようですし、シスター吉田が11月3日にシエラレオネの保健省が発表したデータとして知らせてくださった数は  
感染者数、4059名 死者、1085名、 完治者、823名でした。
ですから、数字を深読みし過ぎてはいけないと思いますが、シエラレオネの感染者数は約1ヶ月で約2倍と、恐ろしい勢いで増え続けていること、しかし、完治する人の割合が高いことは明確です。感染の拡大が抑えられると、シエラレオネのエボラ終息の先は見えて来るように思いますし、そうなることを祈ります。



    配給されたお米を手にするのはエボラ熱から生還した婦人

 上記3カ国の今年の人口は、ギニアは1113万人、リベリアは408万人、シエラレオネは610万人です。これによって、人口1万人当たりの感染者数を計算してみますと、ギニアは1.7人、リベリアは16.7人、シエラレオネは8.8人ということになり、西アフリカ3カ国でも、随分異なった感染状況であることが分かります。ギニアは、人口に対する感染者の割合は低いのですが、感染者の死亡率はとても高くなっています。
 ちなみに、人口が12654万人の日本で、シエラレオネと同じ割合でエボラ熱の感染者が発生したとすると、111,355人という膨大な数になってしまいます。
  しかし、シエラレオネ等と比較的近い位置にあるナイジェリアでは、20人の感染者と8名の死亡者が確認されたのを最後に、新たな感染者が出ないで、国も終息宣言を出しました。ナイジェリアがなぜそのように短期間に終息することができたのか、各国の指導者は懸命に研究していると思われますが、アフリカ内における経済力や教育力の差が、この結果を生んでいると考えるのは、あまりにも短絡的過ぎるでしょうか。
  私が7年ほど前に、ルンサのOLG校を訪問した際に、同校にはナイジェリア出身のシスターも数名おられました。彼女たちと親しく話ができた訳ではありませんが、アフリカ出身のシスターとしての自信を持って仕えておられた姿が思い出されます。エボラ熱禍からの脱出の為に、先進国の支援に頼るだけでなく、アフリカの人々皆の力を結集するという機運が高まれば、今後のアフリカの発展の大きな力になるのではないでしょうか。そのような事も期待したいと思います。



 シエラレオネの子どもたちの笑顔が消えてしまいませんように




    カイラフン地区へのお米配給を終えて、
    右はエボラ第6信を書いたジョセフィン・カマラ修練院長

                             文責  ともに歩む会代表 菅野勝治郎

2014年11月3日月曜日

Sr.根岸のご命日に

  神様 マリア様 
  私はたくさんの恵みに生かされました。
 すばらしい人々と 出会いました。
 すばらしい家族、友人    感謝でいっぱいです。
 すばらしい姉妹方    幸せ者でした。
 私はこれからどうなるのでしょう。
 すべて あなたにおまかせします。     
        感謝。    
                    レティシア マリア

 
 上記の文は、シスター根岸が召された後、遺品を整理した修道院長のシスター鴨居が病床に遺されたノートから見つけられたものだそうです。何月頃に書かれたものか定かではありませんが、縦書きの文を左から書き始めておられることから推測すると、意識の衰えが目立ち始めた9月頃のものではないかと思われます。

この11月1日、シスターが召された日に、ともに歩む会のスタッフなど7名でシスターのお墓参りに行きました。朝から雨が降ったり止んだりする天気でしたが、私どもがシスターの墓前に立った頃には急に雨足が強くなりました。シスターが何かを伝えたかったのではないかと思われました。お花を供えて、讃美歌を歌い、静かに黙祷するだけの簡単なお墓参りでしたが、この日初めてお会いした支援者の方とも祈りを合わせることができ、とても満たされた思いの一日になりました。


             ルンサの修道院前にあるSr.根岸の墓碑
        (2014年11月1日にsr.吉田が撮影)

下記の文は、2004年にシスター根岸が帰国された際に、玉川学園小学部で講演された際の録音記録の一部です。20数年前に起きた内乱の様子を、優しく小学生に語りかけています。
今、シエラレオネはエボラ出血熱の感染拡大という大きな国難に遭遇しています。悲惨な内乱を乗り越えたように、この度のエボラ熱禍も乗り越えられるように、天に在るシスターの応援を期待します。

<前略> でも、残念ながら1990年頃から戦争が起こりました。最初に戦争を起こしたのは大学生です。シエラレオネの大統領を初め、偉い人達は「アフリカは貧しいんですよ。貧しいんですよ。」と言って、世界中の人たちから沢山のお金をもらいます。そのお金を貧しい人にあげないで、自分のポケットの中に全部入れてしまうんです。そのため、貧しい人はいつまでも貧しくて、お金持ちは大金持ちになってしまうんです。それを見た大学生たちが怒って、そういう政府を止めさせようと、正義感を持って反乱を起こしました。けれどもそれは束の間で、大学生たちの反乱軍は悪い心の人たちに利用されてしまったのです。

  というのは、シエラレオネという国はダイヤモンドが沢山採れます。そのダイヤモンドに目を付けて、このダイヤモンドでお金儲けをしようと思う外国の人が、シエラレオネの隣のリベリアという国から沢山の兵隊をシエラレオネに送り込んで来ました。その裏には、アフリカ以外の国の指導者たちがいたわけです。
そのような経過で戦争が大きくなってしまいました。日本と違って小さな国、九州ぐらいの国ですから、徐々に戦争が激しくなり、1994年のクリスマスにはとうとう、私たちの住む北部ルンサに到着しました。私達はまだ学校で生徒たちに教えていました。そこへ、お手紙が来ました。「1213日、あなたたちの町を攻撃する。命が惜しかったら逃げなさい。残っている者は全部殺す。」という手紙です。ですから、私たちが初めてその手紙を受けた時に、殆どの人が逃げました。村に残ったのは、男の人と私たちだけでした。そして、とうとうその日がやってきました。鉄砲の音がドンドンしましたが、村の人達は一生懸命闘って反乱兵を追い返すことができました。

  でも、反乱兵は増えるばかりです。本当でしたら、反乱兵は少ない人数だったんですけれど、シエラレオネ人ではなくて、よその国の人たち、それから麻薬で無理矢理に作られた兵隊がロボットのようになって、だんだん増えてしまったのです。そのために、反乱兵はどんどん多くなって、とうとう私たちは1998年の2月にルンサを追い出されてしまいました。

  ジャングルの中を3日間逃げ回りました。そして、敵につかまりまして、わたしはこめかみに鉄砲を突き付けられて殺されるところでした。鉄砲で私の額を押して「お前を殺す、そしてここを焼き払う」と言いました。神父様ともう一人のシスターと私の3人は、もう本当にこれが命の最後だと思いました。そして、私は天に向かってお祈りをいたしました。その時に、一人の反乱兵に少し正常な心が残っていて、私たちの祈りを聞いて、「この人たちは神様の人だから殺すのは止めよう」と言いました。もう一人は「殺すんだ!殺すんだ!」と叫びましたが、私はそのまま手を挙げて「鉄砲の玉が来るのはいつだ」と思いながら祈り続けました。すると、とうとう正常な心の方の兵隊が勝って、私たちが振り向いた時には反乱兵の姿はありませんでした。その代わり、パスポートも時計もメガネも全部無くなっていました。
 
                講演を終えて、子ども達に囲まれるSr.根岸

  空っぽになって、ジャングルの中を歩いて、私はマラリアのために動けなくなってしまい、ハンモックに乗せてもらって助けてもらい、そして「国境無き医師団」に助けられました。そして、アリタリアの飛行機に乗せられて、ローマに到着したわけです。<後略>



▼ この後、日本に一時帰国したシスターは、次には極寒の地、ロシアに遣わされて宣教活動に従事しました。そして2002年、内乱で疲弊しきったシエラレオネに戻り、心も体も大きく傷ついた女性たちが自立できるようにと、職業教育の場としてマリアイネス職業センターを立ち上げ、その教育に生涯を捧げました。


▼ 白幡・吉田の両シスターは元気でご活躍です。最終段階を迎えた幼稚園舎建築や貧困家庭への食料配布等で超多忙な様子ですので、今回はシスター吉田の報告は遠慮しました。学校はまだ再開の見通しが立っていないようです。
  引き続きお祈りください。

                   
                       雨の中の墓参り(11月1日)