会報44号のために書いてくださったシスター白幡からのメールが15日にとどきました。会報の追伸としてお届けします。
あまりに長い間お便りをしなかったことをまずお詫び申し上げます。
2月の初めに病気になって、すぐにマイル91のクリニックに行くように言われ、1週間たって少しは良くなったのですが、そんなある日の朝、バスルームで転び、腰を強く打って、あまりに痛くて一人では歩けなくなりました。医師や看護師たちのシスターに囲まれたところで手厚い看病をしてもらっていました。特に看護師のシスターアドリアナは私に付きっ切りで薬のことからすべてやって下って今でも感謝しています。
玉川白百合幼稚園の園長のシスターエスメラルダが同じ時期にメキシコに行き、3つもの手術をしてそれが良くなるまでシエラレオネには戻れなくなりました。 ちょうど総長が頑張ってローマからいらしていたので、私とも個人的にお話ししてくださいました。「『歳を取ったから何もできない』と言わないで、神さまからいただいた務めに大きな愛をもって心を込めてやりましょう」とはっきり言われました。
シスター方、看護師さんたちや職員さんたちと一緒に広間で総長を歌と踊りでお迎えしました。6年に一度の事なので皆で修道院の前に長椅子を並べてチキン入りのごはんをいただきました。
考えてみればそんなに長くは感じません。戦争中には女の人はいない方が良いと言われて1994年、ローマに避難しましたが、その間シスター根岸とヴァチカンの聖ピエトロ聖堂に行って日本から来た巡礼者の方たちに少しお話できたことなどを思い出します。早くシエラレオネに戻れることを皆で祈っていましたが、1995年、まだ平和が来ないのでその間、メキシコかアイルランドか日本かアメリカに行くことになりました。私はシスターテレサとアメリカに行くように言われました。アフリカから遠くなることを思って悲しみました。しかし、従順する事が大事ですから喜んで受け取りました。そしてカリフォルニアの修道院の幼稚園で働きました。毎日、シエラレオネに戻れることを祈っていたので、2004年にまた帰ることを許された時の喜びはどんなに大きかったことでしょう。
その時小学校の校長ではなくて、幼稚園で働くように言われました。1974年から95年までは小学校で、2004年から15年までは幼稚園で働きました。
クリニックなのでイタリアやスペインからヴォランティアがいらっしゃいますが、イタリア人とスペイン人がいらしたとき北部のカバラトいう所まで行きました。車で4時間ほどの所ですが、暗い森の中を何時間も走っていつ着くのか心配しました。夜遅く着いたのですが山の上のレストランに呼んで下さり、おいしい夕食をいただきました。
翌日の朝、その町の教会に行って感謝しましたが、ミサのあと、ある女の人が近づいてきて「シスター、45年以上前にシスターに教えていただいた アミナタ カマラです」と挨拶されました。シエラレオネは小さな国ですが、フリータウン、マケニ、ポートロコなどで会う人たちから挨拶されると、その方たちのお名前は思い出せなくても、まだ覚えていてくれて私のためにお祈りして下さっていることに感謝します。
4月27日はシエラレオネの独立記念日でした。また6月16日は「アフリカ子どもの日」のための祝日でした。その日に女の子たちは一人ずつお人形をもらってとてもよろこんだそうです。6月22日は会の創立者のお祝い日なのでマンゲに集まってシスターたちと一緒に感謝しました。その日から1週間は創立者の教えの謙遜と神様への信頼などを心に思い出して過ごしました。6月30日から7月6日まではルンギで13人のシスターたちと一緒に年の黙想にあずかりました。 この1週間、完全な沈黙の中で普段の自分を黙想します。とても良いことです。帰りに車のタイヤがだめになり2時間以上道で待ちぼうけをしました。日本だったら代わりのタイヤを手に入れるために近くにガソリンスタンドがたくさんあるのでしょうが、でも長い間我慢して待つ事も学ばなければなりませんね。
これからもどうぞよろしくお願い致します。
シスター白幡。2024年7月9日